山中教授がiPS細胞の研究でノーベル賞を受賞されたそうだ。
新聞記事などを読むと、若いころに臨床医を目指したものの、普通は20分ほどの手術に2時間もかかったそうで、「ジャマナカ」というありがたくないあだ名まで貰っていた方だという。臨床医で挫折を経験された後、再生医療に取り組まれ、それまで世界より遅れていた日本の研究を一気にトップに押し上げただけではなく、世界中の研究者に新たなる世界を切り開いたのだそうだ。
この、挫折から逆転劇は痛快だし、この閉塞感漂う世界に希望を与えて下さった素晴らしい研究だと思う。山中教授はまた50歳と言う若さだし、これからもドンドンご活躍されるだろう。とても期待したい。

山中教授のご活躍は手放しに喜べるものだし、微塵も否定する気はない。あくなき知的好奇心こそ人間特有のものだと思うし、それを体現されている立派な方だ。

ただ、私個人としては再生医療というものに違和感を感じる。
人間、誰だって健康に生きたいし、病気やけがをすれば治したいと思うのは当然の事。私だってそうだ。
現在は難病と言われている病気や怪我が治るのは素晴らしい事。

しかし、私が感じる違和感と言うのは、「そこは神の領域ではないか?」という事だ。
iPS細胞の研究に関する新聞記事を読む限り、私は全てを理解できた訳ではないのだけれど、どんな細胞でも作り出す事が出来るらしい。だからこそ、病気や怪我で臓器や神経が損傷しても、その代りを作り出して治癒する事が期待できるという事らしい。これ自体はとても素晴らしい事だと思う。
読売新聞の記事では、次の様な例えが紹介されていた。
「落ちている髪の毛から本人が知らないうちにまったく同じ遺伝子を持った人間を作り出す事が出来る」というもの。
だからこそ再生医療として期待できる技術なのだけれど、果たして人間はそこまでやってしまって良いものなのだろうか?
つまり、受精と言う過程が無いのに生命体ができてしまう。多くの生物では子孫を残すのに受精が必要とされる。とても面倒な過程なのだけれど、必要があるからこそ多くの生物で採用されているシステムのはず。この受精が必要ないのは生命への冒涜ではないだろうか?

陳腐な例えだけれど、人間以外の動植物は病気になったり怪我をして体の機能が損なわれても、自然治癒できる範囲までしか治らない。私はそれが運命と言うものなのだと思う。
人間を神として祭り上げた宗教で言うところの神は全く信じないけれど、人間の想像が及ばないところで何らかの意図が働いているとしか私は思えない。地球の歴史に生命の誕生があって、全ての動植物が生きている事には意味があり、無駄な生命体はいないと思うのだけれど、それは神の仕業としか思えない。

現実的に考えれば、再生医療が実用化された場合、その恩恵にあずかれる人は裕福なお金持ちだ。その再生医療を受ける事ができる人と、できない人の間には人として考えた場合にどんな差があるというのだろう。お金を持っていれば人として立派かと言えば、そんな事は無い。概ねお金持ちと言うのは一部の人を除けば「人としての優しさ」を持ち合わせていない様に思う。
「人を思いやる心」を沢山持っている人がこの再生医療を受けることができるというのならばまだ分かるのだけど、そういう価値観ではなくお金という価値観だけで人が差別されるのは良くない事と思うのだ。

先にも書いたが、山中教授の研究を否定する気は全くない。もっとドンドン研究して頂いて、生命の神秘を解明する事は人間の持っている知的好奇心からみてもとっても正しい事。
ただ、そこで知りえた事を倫理的に運用できるのか?という面については、性善説を信じる私でもどうかな?と思う。
人間は欲望に弱い。それほどの高い倫理観を維持できるとは考えにくい。
ES細胞とか、今回のiPS細胞の研究は人類にとってのパンドラの箱を開けてしまったような気がしてならない。